2022年02月10日 09:21
自由に生き、人を魅了する作品つくった
渡久地明(沖縄観光速報社)
前田章さんが二月十五日、亡くなった。病院で誕生日を祝ってもらったばかりの六十一歳、ガンだった。一週間後の日曜日、那覇市内で「前田章さんとの思い出を語る会」が催され、親族、友人たち百人が集まった。
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東京で商業デザインを学び、海洋博が開催されようとしている沖縄で初めてインテリアデザインの会社「コンセプト1」を設立した。それまで、専門家がいなかった沖縄の空間デザインの世界に初めて本物が現れた。
当時、海洋博会場の沖縄館はピラミッドを表す急峻な三角の赤瓦屋根の外観が先に決まり、内部の展示スペースをどう作るかが課題になっていて、何日も徹夜で会議が続いていた。総合プロデューサーが「キミは一言も発言していないがアイデアはないのか」というと、前田さんは巻き貝を見せて「建物内部を螺旋状に上がって、降りてくる構造が最も適している」といい、その場で決定した。
人を魅了するデザインを次々に打ち出した。その感性は高級クラブによく現れた。一九八〇年代、那覇市内の売上ベストテンの店舗の上位を前田さんのデザインが独占していた。いま、松山にあるバー「ステア」は前田さんの晩年の作品である。曲面を必ず取り入れるデザインで、やさしさや暖かみを表現していたのだと思う。
一九八五年頃、当時の観光開発公社が沖縄の新しいお土産品をつくろうと前田さんに依頼して取り組んだことがある。西武デパートを取材しに行く空港で、前田さんに初めて私は出会った。実際に琉球ガラスを使ったライターケースなど百を越える工芸品を試作、一連の作品を新工芸と名付けた。それらの商品を核に現在の物産公社の原形のようなものを構想したこともある。
ユーモアたっぷりの魅力的な人で自由に生きた。二十代半ばの私はすっかり前田さんが大好きになった。しょっちゅう事務所を訪ねて前田さんといろんな話し、多くのことを学び、私は幸福だった。
コンセプト1の仕事の内容は多彩であった。CI(コーポレート・アイデンティティー)を初めて沖縄に持ち込み、手がけた。石垣のパナリ島では映画を撮った。平和祈念資料館の展示や平和祈念式典を請け負った。第一回NAHAマラソンは一切の運営を引き受けた。
天才的な作品を残した半面、酒を愛し、カネには苦労していた。「語る会」で諸先輩方は前田さんに酒をご馳走したときのエピソードがほとんどなのに、私はおごって貰った方だった。楽しいときに飲み、苦しいときにも飲んだ。そして、いつまでも飲んだ。
喉のガンで数年前に声が出なくなっていたが、紙に文字を書いたり、口を動かして表情でよくしゃべった。昨年秋、絵を描きはじめたといって個展を開いた喫茶店で「(医療費などで)国に世話になった。国に何もしなかったのに恥ずかしい」といった。「わはは。国家公務員になったと思えばいいじゃないですか」と私は変な慰め方をしてしまった。実際には仕事を通じて社会的に大きな貢献をしていたのだった。
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今年になって病院に見舞ったら、首から下が動かなくなっていた。ガンが首を通る神経を冒していた。ターミナルケアの病棟には、聖書の言葉が満ちていた。多くの友人たちが訪れ、そのたびによく話した。生涯連れ添った貴美子さんが口の動きから文字盤で文字を選び、紙に書いて言葉をつなげ、通訳した。ほのかに香りがする程度に薄めたジョニ赤をスプレーで口の中に吹きかけてもらい、味わっていた。
ついに唇を動かすことも出来なくなり、目をつぶっている時間が長くなった。亡くなったときには体は半分に縮んでいるように見えた。
病院の安置室で賛美歌を歌ってお別れした。二時間の後、骨になった。三十人くらいの親族、友人が集まっており、みんなで骨を拾った。
前田章さんは天国に行った。先に行って待っている仲間がいる。昔の仲間が集まって酒を酌み交わしている様子が目に浮かぶ。そのうち私も行くから、また一緒に飲んでね、前田さん。