2005年06月25日

身近な戦争体験

 沖縄戦が始まったとき3歳だった。記憶は明快にある。やんばるに米軍が上陸したとき、家を捨て山に逃げた。崖の斜面に壕があり、そこにこもった。

 村を焼き払ったのは日本軍だった。米軍が村を焼き討ちにするというのはウソだった。壕の下を米兵が通った。この時、小さな子供が泣くと潜んでいることがばれるからと、赤ん坊の口に綿を詰めて声が出ないようにした。

 「殺したという意味ですか」

 殺した。わたしは泣かない子供だったので殺されなかった。

 いよいよ米兵に見つかりそうになると、もういつ死んでもいいだろうと年寄りを入り口付近に押し立てようとしたが、年寄りほど真っ先に奥に逃げ込んで動かなかった。子供が先に表に出た。

 表に出てみると、米兵は傷を手当し、食べ物をくれた。米兵に殺されるというのは沖縄住民の思いこみだった。

               ………

 沖縄慰霊の日を外して戦争の話をわざとするわけだが、上の証言は21日の産学交流サロンの後に久茂地のある飲み屋で飲んでいる際、琉大工学部の山城教授が同年生くらいではないか、といってその飲み屋の主人から引きだしたものだ。口を挟んでいるのはわたしである。

 ときどき飲みに行く店のマスターから意外な話を聞いたものだ。え、3歳の記憶が信じられるかって、信じられる。わたしも2、3歳ごろの記憶のいくつかが鮮明にある。戦争ならなお鮮明に残っているだろう。

 特攻隊の飛行機は伊是名の沖合いでどんどん打ち落とされた。

 「攻撃成功はなかったんですか」

 あたる分けないよ。みんな途中で落ちた。花火を見ているようだった。

 とマスターは話を続けた。沖縄に住んでいると、何かを調べようとしなくてもこのような話は自然にきこえてくる。

 この他、

 ●従軍慰安婦がいなかったって? そんなバカな話があるか。沖縄戦ではオレはまだ小学生だったが、そのお姉さんたちを連れて一緒に逃げたんだよ。(県内大手企業経営者)

 ●南方で戦っていたが、慰安所に並んで順番を待っていたよ。(県内中小企業社長)

 ●人の脳は当時は結核の薬だった。(県内大手企業社長=故人)

 上の最後の証言は県内中小企業の社長たち10人くらいで中国に行って、夕食会でへびの肉やスッポンの生き血の酒、猿の脳を食ってみたいという話をしているとき、最高齢の団長から聞いた話しであるが、かなり詳細な証言で全員が一瞬会長は何をいっているんだろうと唖然とし、全員が自分の聞き違いだろうと思ったものだ。その後、誰もこの話に触れなかった。
-----


同じカテゴリー(琉球の風(区別不能の原稿))の記事

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。