2005年06月27日
奇想天外、再び

奇想天外なそのプロジェクトは、県民や観光業界いや政財界の度肝を抜くものだった。
どうやってアメリカの大企業を動かしたのだろう。株式会社沖縄NBC会という元船員が集まった会社の徳村直栄社長に会ってみると、このプロジェクトの裏には戦後の日本が高度成長を遂げる際の米、日、沖縄の壮大なドラマがあった。
戦艦大和をつくった日本の造船技術に目を付けたNBC社のラドウィック氏は日本企業に次々と世界最大級のタンカーや貨物船を発注する。これを受けたのが後の石川島播磨重工業の土光敏夫氏と真藤恒氏だった。そして、船を造るのと同じようによく働く船員も欲しいというラドウィック氏のリクエストに対し「日本は窮屈な法律があって無理だが、沖縄の人たちなら日本の船員と同じ仕事が出来る」と真藤恒氏がアドバイスする。これをきっかけに、復帰前の20年間に延べ2,000人の沖縄の青年たちがNBC社のクルーとなり、世界中を航海、仕事をしたのだった。
この2,000人のクルーの中に徳村氏がいた。沖縄が日本復帰すると外国船に乗り組むにはさまざまな規制があって難しく、ほとんどのクルーが陸に上がり、新たな仕事を見いだしていく。
船を下り、稼いだ元手で、沖縄ではじめての道路清掃会社をつくった徳村氏は、会社を軌道に乗せる。
そして、私が今あるのは昔、船に乗ったからだ。世界一の船をどんどん造ることが出来たNBCという会社の社長に会って見たい…、との思いを募らせる。
その後、ラドウィック、真藤、徳村はある時点で互いに対等の立場で横一線に並び、同じ夢を見る…
というドキュメンタリーに着手したので、そのお知らせ。
Posted by 渡久地明 at 21:21│Comments(0)
│琉球の風(区別不能の原稿)