てぃーだブログ › 渡久地明の時事解説 › 琉球の風(区別不能の原稿) › 風船爆弾の研究者

2010年01月02日

風船爆弾の研究者

 謹賀新年くらい書いておこうと思ったら、下の記事があったので取りやめて、少し思い出したことをメモしておくとしよう。
 元群馬大学長、元日本接着学会長の畑敏雄さん死去

 畑 敏雄さん(はた・としお=元群馬大学長、元日本接着学会長)が昨年12月31日、急性心不全で死去、96歳。通夜は1月4日午後6時、告別式は5日正午から、いずれも東京都新宿区南元町19の一行院千日堂会堂で。喪主は長女の井出まり子さん。(朝日新聞2010年1月2日11時8分)

 わたしが入学した頃の群馬大学の学長で、化学系の教授だった。講義を受けたことはなかった。卒業式だったかの訓辞で
 
 「下手な考え休むに似たりというが、どんどん下手な考えをやって欲しい、後で必ず役に立つ」というようなことをいっていたと思う(うろ覚え。すみません)。
 
 畑学長もそうだったが当時の大学には第二次世界大戦で海軍や陸軍の研究所で新兵器を開発していたという人がまだ残っていた。
 
 畑学長は風船爆弾の開発部門最年少の研究者で、和紙を張り合わせて風船を作る際の接着剤を研究していた。群馬県でよくとれるこんにゃくを接着剤にしたということだったと思う。
 
 研究課程で「畑の接着の理論」というのを見つけて、戦後もそれが世界で通用していた。そこで日本接着学会の会長などを歴任することになったと思う。
 
 畑学長と同年代では電磁気学の畔上道雄教授が思い出に残る。定年直後になくなったが、海軍の研究所でレーダーを開発していた。レーダーを理論的に完成させたが、実物は戦争に間に合わなかった。戦後、米軍がレーダー完成直前まで来ていた研究にビックリしたという。戦記物の本の中には日本の敗戦はレーダーが間に合わなかったからだとするものもある。戦後、これらの研究を片っ端から論文にして、全国最年少で教授になったという。
 
 同じ研究所に朝永振一郎教授がいて、殺人光線の研究をしていたという。これは名目は殺人光線だったと思うが、実際には朝永先生なら好き勝手なことをやっていただろうと思う。海軍では原爆の研究をやっていたとも聞いた覚えがある。
 
 畔上教授は戦後は社会主義の論客となっており自身では畔上主義だと言っていた。
 
 30年くらい前に「先生は戦争に勝とうと思っていたのか」と聞いたことがある。
 
 「当時は…、それはどうせ戦うなら勝つ方がよいと思っていた」と頭をかきながらこたえた。

………

 畑学長というのはこういう話しが出来る日本の研究者の最後の一人だったのではないか。



同じカテゴリー(琉球の風(区別不能の原稿))の記事
ヒューマンデバイド
ヒューマンデバイド(2023-07-01 04:12)


上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。