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2005年06月02日

メディアの役目、多数派になってはいけない

メディア



といえば最近は新聞や雑誌、TV、ラジオを連想するが、日本語では媒体、媒質である。



媒体、媒質とは物理学では空間のことだ。空間の種類には真空、空気、海中、固体など色々ある。昔はエーテルというのもあった(復活するかも知れない)。



早く言えば、あるものとあるものをつなぐものが媒体である。新聞やTVはニュースと読者をつなぐから、メディアという。物理学で言う媒体の性質に関してはありとあらゆる研究が行われ(マスコミ学でも研究されているだろうが)、電磁気の教科書などでは媒達作用と直達作用についてまず最初に論じられる。



さて、ここで述べるのは電気磁気学ではなく新聞、テレビの話である。これらのメディアも正しく媒体であり、それ自体にはあまり意味はない。例えばニュースを伝えるにあたって、事実をそのまま右から左に伝えるのが媒体である。しかし、ニュースの現場にいるのはニュースそのものとそれを取り上げる記者という発信源である。今のところ、媒体である新聞社やTV局は発信源である記者の書いたものをそのまま伝えているケースが多い。



ところが、ごくまれに、その発信源である記者が間違うと媒体そのものは本来ノーチェックであるから、間違った記事が世の中に配信される。



現場の記者が間違えば印刷される内容もまた間違いであるという理屈は物理学や電磁気を勉強する前に当たり前の常識だろう。事件や事故なら記者は目の前で起こっていることをそのまま独自の表現力で伝えればよい。記者会見やインタビューも相手の言っていることを最低限そのまま伝えれば、媒体の役目は果たしている。



しかし、記者もまた人間であるので自分の意見と違うことを取り上げるときには気分が乗らない。本人の人生経験に基づいて偏見が混じることはしばしばある。世間の常識と大きくかけ離れたことについて、記者そのものが拒否反応を示すことがあるのだ。それが突出するのが社説といわれるものである。普段相手が言っていることに拒否反応を感じ続けているから、社説でその憂さを晴らす。だから、社説は

 


偏見の塊




といってよい。



本当は世間の常識とは何だろうということを追求し、ひょっとしたら世間の常識といわれるものが間違いである、と指摘するのも記者の仕事なのだが、最近そんな記事にはとんとお目にかかれない。



記者自身の人間が小さくなってきているわけだが、これはもう、しかたがない。しかし、人間の大きい小さいとか、人生観とは無関係に原点に帰って媒体としてのマスコミの存在価値を追求するのは簡単だ。自分と違うことを述べている人の意見や考えを、たとえ理解できなくても紙面にどんどん出すことだ。



へんてこりんなニュースやとんでもない理論こそがわれわれは面白い。なぜかすでに世論調査や政治家、TVに出るエコノミストの多数派になってしまった税金の無駄遣いをやめようとか、構造改革論なんか



クソ




である。こんな低能な世論に与してはならない。


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Posted by 渡久地明 at 10:54│Comments(0)マスコミ評論
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