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2011年11月03日

追悼スティーブ・ジョブズ

あるべきコンピュータの姿追求した天才

 小さなコンピュータで世の中を変えた一人の男が(2011年)9月5日、亡くなった。Appleのスティーブ・ジョブズだ。56歳と若く、わたしとほぼ同年代。天才だった。訃報をラジオで聴き、ホームページにアクセスすると彼の遺影が掲げられ、Appleの短いコメントがあった。お悔やみのメールを受け入れていたので、短いコメントを投稿した。わたしはApple信者というわけではないが、Appleコンピュータは大いに仕事の助けになっており、いまではこれがなければ仕事も生活も成り立たないくらいだ。インターネット上にはジョブズの功績がさまざまに挙がっているが、ここではわたしなりにジョブズがやったこと、それがまわりにどう影響を受けたかをまとめてみようと思う。(本稿は「観光とけいざい」第819号に収録したものの転載です)

追悼スティーブ・ジョブズ



愛用のPM G3 DT233 と Mac mini Intel Core2Duo



■1970年代のコンピュータと当時の大学の思い出
 いまのパソコンの元になるようなものは1970年代半ばにマイコンという名前で出始めた。当初はCPUが載った基盤に、使う側がテープレコーダーやブラウン管を組み合わせて、プログラムを機械語で書いていた。当時、工学部の大学生だったわたしは、機械語を覚えるのが面倒で、ラジオ雑誌などに載ったプログラムを、友人らが徹夜で手入力したインベーダーゲームなどを使うばかりだった。
 すぐに国内各メーカーから見た目はいまのデスクトップパソコンとほぼ同じ製品がいくつか発売されたが、やはり使い道はなかったと思う。いちいちプログラムを組まなければならず、アプリケーションソフトというのはほとんどなかった。自分でつくらなければならず、ちまたではベーシック言語講座などが流行っていた。だが、なぜわれわれがベーシックのコマンドなんか覚える必要があるのかと思っていた。ジョブズも全く同じ考えで「取り残されたもっと多くの人たちのためのコンピュータをつくる」といっていたことを、亡くなってから知った。もちろん「取り残された」人たちというのは言語が分からない人たちという意味ではなく、目指すべきコンピュータはこうではないはずだと考えていた人たちのことだ。Appleは世界最大の企業に成長したが、それを世界中の「取り残された」人たちが支えたというわけだ。
 マイコンが世に出た頃、この手のものが得意なはずの工学部では、もちろん勉強しろという指導はあった。だが、まだまだ面倒だという教授や学生は多かった。
 「何でオレがキーボードを叩かなければいけないの。言葉でしゃべったらそれを片っ端から文字にしろ」というぐあい。
 この教授は第2次世界大戦の爆撃機乗りで、一度、任務に就いたが、敵を発見できず、海の上に爆弾を一発捨てて戻ったという人だった。終戦直後、アメリカに渡り、米メーカーからありとあらゆる教えを乞うた。その後、日本の電気メーカーで大いにその時の知識を取り入れた製品をつくりだした(早くいえば外見から中の配線、ロゴまでパクリ。日本に宇佐という地名があったので「メイドイン宇佐」と英語で書いて輸出した企業もあったという。いまの韓国や中国がやっていることを戦後いち早く日本がやっていたわけだ)。その過程でどんどんオリジナル技術も生み出し日本は電子立国と呼ばれるようになったのだった。この人は定年後、大学に移って、電子回路を受け持つ教授となった。

■人に近づくコンピュータ インターフェイスが大事

 生体情報工学という当時、先進的な分野を研究していた別の教授は「インターフェイスが大事。将来のコンピュータはもっと人間に近づいてくるだろう。また、人間の方もコンピュータに近づいていき、人々の生活も変わってくるだろう」といっていた。この先生は戦時中、海軍の研究所で日本におけるレーダー理論を完成させ、実践には間に合わなかったが、戦後すぐに中央審査を最年少でパス、教授となった人だった。
 当時わたしはまだコンピュータそのものをどうにかしようというよりも、そのうちコンピュータも便利になるだろう、いまは面倒すぎて使えない、と思っていた。全国の大学には次々と情報工学科が創設されている頃だったが、まだまだ、電気や電子工学のほうに人気があった。三十数年後のいまとなってみると、わたしが出た大学の電気・電子工学科はなくなり、情報工学科だけになっていて驚いている。
 それでもいまの会社に入った直後に、価格も性能も手頃なパソコンが出たので買い揃えたこともあった。が、やはり、使い道はなかった。
 しょうがないから、当時、問題になっていた米軍の射撃場から出た流弾がどの程度飛ぶのかという計算をやってみて「何だ、7キロくらい楽に飛ぶじゃないか」というようなことをやった。米軍の説明では流弾が飛んできたという民間地域までタマは届かないという説明だったが、ウソっぽい。
 適当な角度で銃を撃てばタマは40キロくらい飛ぶようだった。しかし、計算ではなく実際に海に向かって撃ってみたら、ホントに飛ぶかどうか分かる。やってみる方が早いのにな、という誠に計算不要の当たり前の結論となってしまった。
 それ以来、何年もパソコンとはあまり縁のない生活をしていた。20年ほど前に会社にあったNECマシンをせっかくあるのだから使わないともったいないと思うようになり、愛用の万年筆をなくしたことなどもあって、フロッピーディスク一枚で動くワープロソフト「一太郎」やデータベースの「桐」を使い始めた。大学卒業後十年くらい経っていた。

■新聞製作大きく変化〜Macで、できることをやる

 ところが1995年、Appleから手ごろな価格の「パワーマック7100」という機種が出て、これは使えるということで初めて自分の意志で会社に導入した。これがAppleコンピュータとの最初の出会いだ。
 「パワーマック」はまだしゃべったことを片っ端から文字にしてくれるというわけではなかったが、われわれの本業である新聞製作に極めて威力を発揮した。こんなに役に立つならもっと早くマッキントッシュを導入しておけばよかったと思った。それまでマックは高いとか使いにくいといううわさばかり聞いていたのだった。
 印刷物製作用にアルダス社の「ページメーカー」というアプリケーションがあり、マックだけで動いていた。それ以来、今日まで「ページメーカー」で新聞をつくっている。
 新聞はキーボードでうった文字を、パソコン上の紙面に流し込んで印刷データをつくるが、それまでの版下製作という行程が無くなり、新聞製作の作業時間は圧倒的に短縮された。これは印刷の革命と思えた。97、98年頃には写植業という業種そのものが日本中から無くなったほどだ。
 新聞製作の電子化ではもう1つデジタルカメラが役に立った。それまではニコンF3を使い、モノクロフィルムを暗室で自分で現像、焼き付けていた。この時間を捻出するのが大変で、とうとうカラーフィルムを使い、町中のDPE店にプリントしてもらうようになったが、今度はカネがかかる。デジタル一眼レフの出現で一貫してパソコン上で加工できるようになり、暗室は不要に、費用も大幅に削減できた。
 この二つで新聞製作の時間や手間が極端に短縮でた。しかも作業手順はこれまでやっていたのと同じことをパソコン上でやるだけ、特殊な技術の習得は不要だった。見たままをマックの画面でつくり、それを紙やフィルムに出力すれば、その通りの紙面ができた。MSDOSマシンでこれができるようになるまでさらに5、6年、マック並みに使えるようになるまでさらに時間がかかったと思う。
 印刷所もMOなどでデータを受け入れ、フィルムを出力するだけとなり、手間が省けた。いまではダイレクト刷版が当たり前になり、さらに価格は下がっている。

■30年後に実現したこと

 これがわたしが知ったMacというコンピュータの威力だった。
 新聞制作でも、やりたいことは色々あるにしても、マックでできないことをやるより、マックできることを最大限にやろうと考えるようになった。この考えは手抜きのように見えるが、「かなり先進的なことをやっていますよ」といわれたことがある。いまは当たり前に使われているPDF変換ソフトが出る直前、取材に来た担当者がそういって面白がった。アドビ社は、アクロバット3.0日本語版を出した際に、ソニーといった大手企業の事例集を収めた付録CDの中にわたしの作品を収録。マックの関連雑誌でも言及されのはうれしい思い出だ。
 このような新聞製作のスタイルの変化は、30年前の学生時代にさまざまに予想されていたことだった。特に人もコンピュータに近づいていく、という予言はわたしがマックができることをやろうと方針を変えたときに意識せずに実現したのだった。
 ジョブズがなくなる一日前に発表されたiPhone4Sは人が話しかけたら適切な答えを音声で返し、画面で必要な情報を見せるというところまで来た。コンピュータは言葉で操作できるようにすべき、という見通しが、かなり実現した。
 ジョブズやAppleがやったことは実は多くの技術者が望んでいたことでもあった。他の多くのパソコンメーカーは初期のパソコンへの夢や期待をうまく発展させることができなかったのだと思う。
 CPUはインテル製、OSはマイクロソフト製ではどのメーカーから出たパソコンも似たり寄ったりになってしまう。安くて当たり前なのだ。
 しかし、Appleだけはあるべき姿に、自分の製品をどんどん近づけようとして、それを実現してきた。

 ジョブズの追悼にわたしがAppleに送ったメールはまず日本語で書き、愛用のMacMiniで英語に機械翻訳したのだが、英語になる前の日本語は次のようなものだった。
 残念です。
 最初、ジョブズとAppleが人に親しみやすいコンピュータを生み出しました。
 次に人はコンピュータにあわせて仕事の仕方、ライフスタイルを変えて行きました。
 すべてのコンピューター技術者はこのような相互作用を開発の方向にすべきでしたが、
実行したのはジョブズとAppleだけでした。


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