2005年06月11日

泡盛のルート

        →ガンダーラ(前325年)→中 国(北京)(1287年)
蒸留器   /             ↓  ↓(福建省経由琉球説も有力)
メソポタミア(前3000年)      タイ→琉球(15世紀)泡盛→日本(薩摩)(16世紀)焼酎
      \             ラオ・ロン酒
        →モロッコ→フランス(16世紀)ブランデー
            ↓
            スコットランド(18世紀)スコッチ


 泡盛について調べていると、上のような経路があったとの記述がある。「泡盛の文化誌」(萩尾俊章、ボーダーインク、04年)の蒸留器の伝播経路図。

 三味線、サツマイモが中国から琉球経由日本に伝わったのは教科書にも出ているが、焼酎も琉球経由だったとは知らなかった。はじめ、薩摩に伝わった泡盛は焼酎と呼ばれており、後に薩摩で焼酎が造られるようになると、琉球焼酎と区別するために泡盛の名が広まる。沖縄では泡盛はサキともいっていた。

 面白いのは、ブランデーやスコッチより泡盛の方が早いのである。ブランデーやスコッチに年代物があるように、泡盛にも古酒があり、沖縄では古酒づくりで味が競われていた。

 鹿児島焼酎との違いは、泡盛の方がはるかにうまい酒であり、焼酎より1段も2段も上の酒と見られていたことだ。

 将軍家にも献上され、日本中の大名や豪商が競って手に入れようとし、手に入らないと日本酒を絞ったあとの粕を蒸留して粕とり焼酎をつくり常備したという。また、薩摩では泡盛に焼酎を混ぜて水増し(焼酎増し)したほどだったが、これは泡盛の価値を下げるとして禁止される。

 この本の中ではほとんど触れられていないが、江戸時代に有力者たちから羨望の的になっていたのは、現代の泡盛とは異なる「古酒」だったからではないか。焼酎の古酒はあるにはあるが泡盛の古酒のような風味や味は出ないように思う。1700年代、200年の古酒があるといい、150年古酒なら珍しくないとさえ言う記述がある。相当な高見に泡盛は登っていた時期があったのだ。

 ブランデー(コニャック)にも相当熟成させたものがあるが、100年は樽では持たないといわれる。

 つまり、現代の泡盛と昔の泡盛は全く異なるもので、

 現代、流通している泡盛=造ってすぐの新酒、3年もの古酒、せいぜい10年もの古酒のことだが
 昔、珍重されていた泡盛=古酒(100年超もの?)

 だった可能性があると思う。

 上記本によると、1534年に冊封使の陳侃が沖縄の酒を飲んで「国王がすすめてくれた酒は清くて強烈だった。その酒はシャムからきたもので、つくり方は中国の蒸留酒と同じだ」と述べているという。

 この時、琉球に泡盛が出来てからまだ数十年しかたっていない。ひょっとしたらまだ古酒のつくり方が確立していなかったかも知れない。強烈という表現には現代流通している新酒の評価と同じものがありそうだ。

 その後、何度か冊封使がきているが、1562年の冊封使は陳侃と同じような記述。1570年に琉球とシャムとの交易がなくなると、その後の冊封使たちの記録からシャムと蒸留酒に関する記述はなくなる、とある。

 これはシャムとの交易がなくなったから、記述もなくなったとは言えないと思う。シャムの酒のようだった泡盛が、古酒の製法の確立と共に、シャムの酒のような味ではなくなったのではないか。



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