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2005年09月17日

経済学の教科書を読もう(中)

 この他、教科書では部分的過剰生産説(セイ)、所得不足説、信用説、太陽黒点説なども取り上げているが、マルクスと小泉構造改革骨太の方針のヒントになったシュムペーターの説を見てみると、


======第10部景気変動論 第4章景気変動に関する学説====

(略)
9 マルクスの恐慌理論

 マルクスによれば、資本主義において恐慌は必然的に発生する。ただマルクス自身は、恐慌理論を体系的に述べていないので、彼の恐慌理論をどのように解釈するかについて、種々の意見がある。大別してつぎの三つである。

 ㈰マルクスは利潤率低下傾向から恐慌を根拠づけようとしている。

 ㈪マルクスは恐慌の原因を過少消費に求めている。

 ㈫マルクスは恐慌の直接的原因を生産部門間の不比例に求めている。

 しかしこれらを総合してつぎのように解することができると思う。

 資本構成は産業部門によってそれぞれ異なるから、商品が価値どおり販売されるとすれば、利潤率はそれぞれ異ならねばならない。しかし自由競争下においては、実際において利潤率は平均しなければならない。したがって商品は価値から離れた生産価格で売られることになる。ところで平均利潤率は、資本構成の高度化につれて低下せざるをえない。資本家は利潤率の低下を償うために、利潤の絶対量を増加させようとする。利潤の絶対量を増加させるには剰余価値の絶対量を増加させねばならない。剰余価値の増加は資本蓄積の増大によって可能となる。しかし資本の有機的構成が高まれば利潤率はさらに低下する。資本家にはこの低下を償うために資本の蓄積をもう一段増加させようとする。同時に資本の集積と集中をはかる。このような経過をたどって生産力はますます増大し、それとともに商品の生産量も増大しつづける。ところがこれらの商品は売れなければならない。もしそれらが売れないか、またはその一部だけしか売れないか、あるいは生産価格以下でしか売れないならば、剰余価値は少しも実現されないか、あるいは一部だけしか実現されない。この剰余価値の実現は生産諸部門間の比例的関係と社会の消費力とによって制約される。

 生産力の発展にともなって消費財生産量は増大しつづける。ところが労働者の分け前である賃金は資本家の分け前である剰余価値に比して相対的に減少する。したがって労働者によって購入される消費財は消費財生産量に比して相対的に減少することになる。資本家所得は相対的に増大するから、もし資本家が消費支出を増大させるならば、消費財生産の増加分はほとんど売れるであろう。しかし剰余価値のすべてが消費に支出されるならば、資本の蓄積が不可能となるが故に、資本家はこのような支出をしないであろう。かくして一方から見れば消費財の過剰生産、他方から見れば消費不足の現象がおきる。かくして商品の一部は売れないか、あるいは生産価格以下でしか売れないこととなる。

 このような状態は生産部門間の比例関係をうち破る。拡大再生産が行なわれるためには、第1部門と第2部門の間に一定の比例関係がなければならない。ところで一方において、第1部門では資本財の生産はますます増大しつづけるが、第2部門では、過少消費の傾向があるために、生産規模をあまり拡張することができない。したがって第2部門は第1部門が売ろうとしている資本財をすべて購入するというわけにはいかない。かくして資本財は過剰となり、二つの部門間の比例関係は破れる。これが恐慌である。生産力の発展は必然的に産業予備軍を発生させるのであるが、いまやこの同じ原因が必然的に恐慌を引き起こすのである。


 ところが恐慌の発生は、再び拡大再生産の存続を可能にする。何となれば恐慌によって、既存資本の価値が破壊されて、生産部門間の比例関係が再び成立するからである。しかし恐慌の発生は利潤率を低下させるから、資本家は利潤の絶対量を増加させようとして、資本の蓄積、集積および集中を促進させる。その結果、さらに生産力は増大し、恐慌も一段と大規模になる。このような恐慌は一定の期間をおいて規則的に発生し、1回ごとにその規模を拡大する。

 以上がマルクスの恐慌理論の骨組であるが、ではマルクスのいうように生産財の過剰生産は必然的であろうか。マルクスは過少消費からこの必然性を説いていると解されるのであるが、これに対して蓄積された資本は資本財に対する需要となって市場に現われるから、過剰生産は必ずしもおきないという主張がある。たとえばツガン・パラノウスキーによれば、商品に対する需要には、消費のための需要と生産のための需要とがある。消費のための需要は労働者の購買力不足によって減退しても、生産のための需要は資本の蓄積によって増加する。それ故に、商品に対する全需要は資本蓄積の増大によって減少するとはかぎらない。消費財に対する需要が減少するならば、消費財の生産を減らして資本財の生産を増加させていけば、過剰生産は発生しないであろうと。このことをマルクスの再生産表式を改造することによって証明しようとする。

 このツガンの説に対しては、資本財に対する需要は消費財に対する需要と無関係ではないという反駁がなされうる。消費財に対する需要が減少するならば、あるいは減少するという予想があるならば、資本財に対する需要は増加しえないであろう。資本は蓄積されても、それは資本財に対する需要となって現われてこないであろう。したがって資本は需要に比して過剰となるであろう。この意味でマルクスの『資本論』第三巻の主張を無視することは許されない。恐慌の原因に関して、『資本論』第二巻と第三巻の間に矛盾があるということは、しばしば指摘されているところであり、そのいずれの主張をとるべきかについて種々の解釈が成立しうるのであるが、資本主義経済崩壊に関するマルクスの結論は、第二巻の再生産の表式からは薄かれない。ツガンが示すように、資本財への需要増加によって、数学的には再生産表式の比例関係が保たれうるとしても、消費財に対する購買力が不足する場合には、実際的には、この比例関係を保つことはできない。

 では過剰生産は必然であろうか。マルクスが理論づけているように、資本主義経済がその純粋な形式で存続するかぎり、その発生は必然的と考えられる。しかし今日では恐慌の発生を防止することは必ずしも不可能ではない。賃金は労働組合の勢力増大によってしだいに増加するようになった。資本家の消費支出は、直接には増大しないにしても、国家が累進課税によって資本家から所得を徴収し、それを貧者へ再分配することによって、あるいは公共事業を行なうことによって、間接的に消費支出は増大する。これに加えてデモンストレーション効果や、依存効果によっても消費支出は増大する。このようにして恐慌の発生が回避される。他方また国家は経済計画によって設備投資の過剰を防止しようとするようになった。無政府的投資から計画的投資への傾向が強くなった。こうしてやはり恐慌は避けられる。さらに独占が強力となって、ある程度の過剰設備があってももちこたえることができるようになった。このようにマルクスの恐慌理論は、マルクスの描いた資本主義社会の下では当てはまるにしても、変貌した資本主義経済の下では適用されない。(411〜413ページ)

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 マルクスもマルサスと同様、過剰生産が起こり、それによって起こる恐慌は資本主義の必然であると述べている。これに対し、教科書では恐慌を防止する方法を㈰国家が累進課税によって資本家から所得を徴収し、それを貧者へ再分配する、㈪公共事業を行なうことによって、間接的に消費支出を増大させて、防止すると述べる。1929年の世界恐慌以来、世界中がやってきたのはこの方法だった。

 いま、累進制をフラット化する、公共投資を減らすという自民党の小さな政府の政策を国民は選んだわけだが、これではマルクスのいう恐慌まっしぐら、ということになる。本当に郵便局を民営化して公務員を減らしたら景気は回復するのか。いま、小泉改革がやっていることは、まさに教科書と正反対のことである。そして、「小泉改革の逆をやる」といった亀井静香氏ら正統な経済政策を唱える政治家が追いつめられている。


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Posted by 渡久地明 at 22:35│Comments(0)デフレ脱却
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